今年の春のパン祭りが終わった。
わが家では、結局お皿は10枚までいった。
なかなかの成果である。
ただ、最後は10点以上余った。
もう少しパンを食べれば、もう1枚いけないこともなかった。
しかし、そこはやめた。
お皿をもう1枚もらうために、無駄にパンを食べる。
これは違う。
10枚で十分。
余った点数は捨てる。
ここまでは、わりと健全な判断だったと思う。
パン祭り大臣、活躍する
わが家には、パン祭り大臣がいた。下の子だ。
シールをはがす。
台紙に貼る。
点数を数える。
あと何点でお皿になるかを考える。
パン祭りのシールには、0.5点がある。
1点だけではない。
1.5点もある。
0.5点もある。
だから、親としては少し感心していた。
「0.5を使えているではないか」と。
0.5点のシールを数える。
1.5点に0.5点を足す。
あと何点足りないかを考える。
これは、なかなか自然な小数教材である。
教科書の小数より、パン祭りの0.5点の方が実感がある。
そう思っていた。
しかし、汚職発覚
ところが、パン祭り中に問題が発覚した。
パン祭り大臣に、汚職である。
いや、本人が悪いわけではない。
こちらの見立てが甘かった。
子どもに聞いてみた。
0.5 + 1.5 は?
止まった。
あれ、と思った。
そこで、言い方を変えた。
0.5点 + 1.5点 は?
これはできた。
つまり、こういうことだった。
0.5は計算できない。 でも、0.5点なら計算できる。
これは面白い。
そして、少し危ない。
できていたのは「小数」ではなく「パン祭りの点」だった
こちらは、0.5点を扱えているのを見て、つい「小数が少しわかっている」と思っていた。
でも、実際には違った。
子どもが扱えていたのは、抽象的な0.5ではない。
パン祭りの点数としての0.5点である。
これは失敗ではない。
むしろ、学びはだいたいここから始まる。
いきなり抽象的な数を理解するわけではない。
まず、具体的な世界の中で使えるようになる。
パン祭りの点。
お金。
ピザ。
時計。
水の量。
そういう具体物の中で、「半分」や「0.5」が見えてくる。
そこから少しずつ、単位を外しても同じだとわかっていく。
だから今回の問題は、
0.5がわかっていなかった
というより、
0.5点という文脈では使えていた
と見る方が正しい。
子どもの「できる」は文脈に支えられている
大人から見ると、
0.5点 + 1.5点
と、
0.5 + 1.5
はほとんど同じである。
でも、子どもにとっては違う。
「点」があると、パン祭りの台紙が浮かぶ。
シールが浮かぶ。
0.5点のシールを2枚で1点にする感覚がある。
でも、「点」を外すと、ただの記号になる。
0.5。
1.5。
そこに実感がない。
だから止まる。
子どもの理解は、できるか、できないか、だけでは見えない。
どの文脈ならできるのか。
文脈を外してもできるのか。
ここを見る必要がある。
修正は難しくない
修正自体は、たぶん難しくない。
いきなり、
0.5 + 1.5
をやらせるのではなく、段階を踏めばよい。
まずは、
0.5点 + 1.5点
次に、
0.5円 + 1.5円
それから、
0.5m + 1.5m
さらに、
0.5こ + 1.5こ
いろいろな単位で同じことをやる。
そのうえで、最後に、
0.5 + 1.5
に戻す。
単位つきの世界から、少しずつ単位を外していく。
抽象化である。
まとめ
今年の春のパン祭りは、お皿10枚で終わった。
10点以上余ったが、もう1枚のために無駄にパンを食べる選択はしなかった。
そこはよかった。
一方で、パン祭り大臣には汚職が発覚した。
0.5点は計算できる。
でも、0.5は計算できない。
つまり、できていたのは抽象的な小数ではなく、パン祭りの点数としての小数だった。
これは悪いことではない。
むしろ、かなりよい発見だったと思う。
子どもの「できる」は、文脈に支えられていることが多い。
だから親は、
できたか
できなかったか
だけで見ない方がいい。
どの文脈ならできるのか
文脈を外してもできるのか
別の単位でもできるのか
ここを見る。
パン祭りは終わった。
お皿は残った。
余った点数は捨てた。
そして、0.5の理解には、まだ少し続きがある。


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