子どもの作文をAIで書くことは悪なのか。

AI×中学受験

子どもの作文をAIで書く。

この言い方は、どうにも評判が悪い。

それはそうだと思う。

子どもが考えていないことを、AIがもっともらしく書く。
子どもが感じていない感情を、AIが美しく盛る。
子どもが経験していない葛藤を、AIが都合よく発明する。

それを子どもの名前で出すなら、問題外である。

「バカなの?」と言いたくなる。

それはもう作文ではない。

少なくとも、子どもの作文ではない。

ただし、ここで話を終わらせてしまうと、少し雑だとも思う。

今回のAIの使い方には、少なくとも二種類ある。

一つは、AIを作家として使うこと。
もう一つは、AIを編集者として使うこと。

この二つは、似ているようでまったく違う。

AIを作家として使うなら、それはアウト

AIを作家として使うとは、要はこんなプロンプトである。

「小学生らしい作文を書いて」
「感動的にして」
「入賞しそうな文章にして」
「親子の思い出を入れて」
「最後は前向きにまとめて」

こう頼めば、AIはそれらしい作文を書く。

実に上手に書く。

子どもらしい語彙をまぶし、適度に素直で、適度に感動的で、最後には「これからもがんばりたいです」と着地する。

はい、80点♪

だが、それは子どもが書いた作文ではない。

AIが、小学生作文というジャンルを演じただけである。

そこに本人の迷いはない。
本人の引っかかりもない。
本人だけが持っている、少し不格好な熱もない。

あるのは、整った文章である。

整った空虚である。

AIに「いい感じに書いて」と頼めば、それっぽい文章は出てくる。

だが、それっぽい文章には、それを書いた人の切実さがない。

文章はある。

しかし、作者がいない。

AIを作家として使う危うさは、そこにある。

では、編集者として使うならどうか

一方で、AIを編集者として使う場合は、話が変わる。

子どもが話した内容を整理する。
経験の順番を入れ替える。
同じことを何度も書いている部分を削る。
伝わりにくいところに質問を返す。
最後の結論が、途中の体験とつながっているかを見る。

このあたりが、編集である。

そして、作文課題において編集が入ること自体は、実は珍しいことではない。

子どもの作文を、まったくノーチェックで出す親がどれほどいるだろうか。

学校の代表になるような作文。
コンクールに出すような作文。
あるいは、それ以上を狙うような作品。

そこに親や先生の助言が一切入っていないケースの方が、むしろ少ないのではないか。

もちろん、程度の問題はある。

だが、現実として、子どもの作文はしばしば大人の目を通る。

「ここはもう少し具体的に書いたら?」
「この順番だと伝わりにくいよ」
「最後のまとめが急に立派すぎない?」
「この言葉、本当に自分でそう思った?」

こうした問いかけは、代筆ではない。

編集である。

編集者は、作家の代わりに書く人ではない。

作家の中にあるものを見つけ、広げ、削り、並べ直す人である。

そう考えると、問題は少し違って見えてくる。

編集者が親なのか。
先生なのか。
AIなのか。

その違いは、どこまで本質的なのか。

もしAIを編集者として使うなら、それは「スキルの高い編集者を使っただけ」とも言える。

少なくとも、理屈の上では。

AIは本当に優秀な編集者なのか

ただし、ここでもう一つの疑問が生まれる。

現在の生成AIは、本当にスキルの高い編集者なのか。

私は、そこはかなり怪しいと思っている。

AIは文章を整えるのがうまい。

重複を消す。
言い回しをなめらかにする。
段落をそろえる。
結論をわかりやすくする。
読み手が引っかからない文章にする。

これは、たしかに便利である。

しかし、使えば使うほど、文章は洗練される一方で、作者の思考や熱さや葛藤は抜けていくことがある。

子どもが本当に引っかかった部分。
うまく言えないけれど、どうしても書きたかった部分。
少し言葉が荒いが、本人の感情が出ている部分。

AIは、そういうところを平気で整えてしまう。

文章としては良くなる。
しかし、作文としては弱くなる。

ここに、AI編集の危うさがある。

熱だけでは作文は成立しない。
だが、熱のない作文もまた残らない。

本来の編集とは、作者の熱を消すことではない。
その熱を、読み手に届く形にすることだ。

親であれ、先生であれ、AIであれ、編集者が見るべきものは同じである。

その編集によって、作者が濃くなったのか。
それとも、作者が消えたのか。

子どもの作文にAIを使うことの本当の論点は、そこだと思う。

AIは、昔からあった問題を見えやすくしただけ

子どもの作文に、大人の手が入りすぎる問題は、AIが登場する前からあった。

親が直しすぎる。
先生が整えすぎる。
コンクール向けに、本人以上に立派な文章になってしまう。

そういうことは、昔からあったはずだ。

AIは、その問題を新しく生み出したというより、極端に見えやすくした。

なぜなら、AIは何度でも直せるからである。

もっと自然に。
もっと感動的に。
もっと論理的に。
もっと高評価を狙って。
もっと大人っぽく。

そう頼めば、いくらでも整えてくれる。

便利である。

だが、便利だからこそ危ない。

気づけば、子どもの作文が、子どもの声ではなくなっている。

これは、親や先生の編集とは少し違う。

大人が編集しても直しすぎれば、子どもの作文は簡単に大人の作文になる。

だから、AIがやっても人がやっても結果は同じともいえる。

でも、そこまで暇な親も先生もいないはずだ。

だから、一部の大人はAIを子供に与えてしまうかもしれない。

子どもがAI編集者を扱うのは難しい

子ども自身がAIを編集者として使うということ。

これは、かなり難しい。

なぜなら、子どもはまだ、自分の文章のどこが大事なのかを十分に判断できないからである。

AIが出してきた文章を見て、

「こっちの方がきれいだ」
「こっちの方が大人っぽい」
「こっちの方が点が取れそう」

と思ってしまえば、それを選びたくなる。

しかし、その文章が本当に自分の考えを濃くしているのか。
それとも、自分の熱を薄めているのか。

そこを見分けるのは、大人でも簡単ではない。

まして子どもなら、なおさらである。

AI編集者を使うには、実は編集者を使う側の力がいる。

何を残すのか。
何を削るのか。
どこは直してよいのか。
どこは不器用でも残すべきなのか。

その判断ができなければ、AIの出してきた「きれいな文章」に飲まれてしまう。

だから、子どもの作文にAIを使うなら、保護者の役割はむしろ大きくなる。

保護者は、AI編集者の編集長になる

子どもが作家である。

AIは編集者である。

では、保護者は何なのか。

私は、編集長に近いと思う。

編集長の仕事は、文章を全部書くことではない。

編集者の提案を見て、これは作者を生かしているのか、それとも作者を消しているのかを判断することだ。

子どもの中にあるものを、AIが勝手に上書きしていないか。

子どもの言葉が、AIのなめらかな言葉に置き換わっていないか。

子どもの引っかかりや葛藤が、きれいな結論に処理されていないか。

そこを見る。

これが、AI時代の保護者の役割なのかもしれない。

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