以前、子どもに、
「テストの反省をしよう」
と言うと、かなり強く反発した。
「反省じゃない!!」
親としては、正直よく分からない。
なぜか家庭内コンフリクトが起きる。
そこで親は学習した。
「反省しよう」ではなく、「振り返りしよう」と言う。
家庭の平和には、ボキャブラリーの調整が必要なのだ。
ところが最近、子どもの反応が変わってきた。
反省でも振り返りでも、結局やることは同じ。
そう理解したのか、「反省」という単語に感情的になることが減った。
これは、単に聞き分けがよくなったという話ではない気がする。
「反省」は、人に向かいやすい
考えてみると、「反省」という言葉は行為ではなく、人に向かいやすい。
あなたは間違えた。
あなたは悪かった。
言った側にそこまでの意図がなくても、言われた側にはそう聞こえることがある。
一方で、
「今回の課題を確認しよう」
「どの判断でずれたのか見よう」
「次の対応を決めよう」
と言えば、対象は人ではなく、行為になる。
作業内容は同じでも、入り口は違う。
ちなみに、親である私は、相手に届く言葉を丁寧に探すより、少し毒づく方が好きだったりする。
困ったものである。
ただ、必要なのは丸くすることではなかった。
表現を精密にすることだった。
仕事でも「責任逃れだ」と人を刺すのではなく、
「この進め方だと、失敗したときの責任だけが残る」
と、行為と構造を指す。
子どもに言葉の受け取り方を学ばせているつもりが、親も言葉の使い方を学ばされている。
算数と長距離走に、同じ変化が見える
最近、子どもの算数の成績もよくなってきた。
勉強方法を試行錯誤し、AIとも解法を比較し、間違えた問題を解き直してきた。
もちろん、そうした積み重ねはある。
ただ、どれだけよい方法があっても、本人が間違いに向き合わなければ改善は回らない。
間違いを、
「自分ができなかった証拠」
と受け取れば、振り返りは苦痛になる。
しかし、
「次に直す場所が見つかった」
と受け取れれば、間違いは成長の入口になる。
同じ頃、以前からそれなりに速かった長距離走も、自分から「走りたい」と言うようになった。
長距離走は苦しい。
私自身、子どもの頃はできれば走りたくなかった。
それでも子どもは、
記録が伸びること。
以前の自分を超えること。
走り終わった後の充足感。
そちらを見始めたように思う。
算数も長距離走も、構造は同じである。
やってみる。
結果が出る。
原因を考える。
少し変える。
前よりよくなる。
以前は、その瞬間の不快感が意味を決めていた。
今は、不快感の先にある変化まで見られるようになってきた。
苦しさではなく、変化量で見る
もっとも、ここで「苦労は尊い」とまとめると、急に昭和の精神論になる。
苦しいこと自体に価値があるわけではない。
必要なのは、
伸びるために必要な負荷だけを選ぶこと。
苦しいけれど伸びる負荷。
苦しいだけで何も残らない負荷。
楽だけれど効果のある工夫。
これらを分ける。
負荷を愛するのではない。
変化量で評価する。
最近の子どもを見ていると、
「今つらいか」
だけではなく、
「この先、自分がどう変わるか」
を見られるようになってきた気がする。
能力が上がっただけではない。
能力を伸ばす仕組みが、本人の中で動き始めた。
それが、テストの点数以上に大きな成長なのだと思う。


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